戦国時代の「三矢の教え」の話のウソ・ホント、「三子教訓状」の話

毛利家の3本の矢の話、やっぱりウソなのでした

学生の頃、日本史という授業が一番好きでした。日本の歴史っていうものがずっと昔から続いていて今の日本というものができている。遠い昔ご先祖様もあの平安時代や戦国時代、幕末を生き抜いて今僕がこうしてブログを書いている、ああなんという不思議。

たとえば戦国時代に華々しく討ち死にしてたら今の自分はいないだろうし、幕末に調子に乗って志士だとか言って走り回ってたら今の自分がいなくって。はっきりと自分のご先祖様がどこで何をやっていたかはよくわかりませんが、おとなしく生きていてくださってありがとうございます、という感じです(笑)

さて、そんな日本史の中で有名な逸話があります。毛利家の「3本の矢」の話です。

三本の矢(三矢の教え)とは

突然ですが「三子教訓状」をご存知ですか?ごめんなさい歴史好きの人でもあまりご存じないですよね。では毛利元就の「3本の矢」の話をご存知ですか?これならOK?

戦国時代、中国地方の毛利元就は死ぬ間際3人の息子を病床に呼びます。そして竹で作った矢の1本を手に取り真ん中でポキッと折ってこう言いました。

「息子たちよ、1本の矢はこのように簡単に折れてしまう」

そう言うと今度は3本の矢を手に取り、折ろうとしますが3本まとめて折る事はできません。

「息子たちよ、1本では折れてしまった矢も3本合わせれば折れないのだ。この3本の矢のようにお前たち3人も力を合わせ毛利家を支えて欲しい、よいな」

いわゆる「三矢の教え」などという話で、昔ドリフのコントで同じようなシーンを作って「一本の矢はこのように簡単に・・・折れない!!しかし三本の矢に束ねると・・・うわぁ簡単に折れた!」というネタがありました(笑)

しかしこれ、まったくの嘘だそうで。

毛利元就が亡くなる1571年7月の8年も前、1563年に長男の毛利隆元は死んでおり息子の毛利輝元に家督を譲っているのです。

元就の「三子教訓状」のこと

実はこの話の元になったものがあって、長男毛利隆元が元就から家督を譲られた時に元就の息子3人に送られた書状「三子教訓状」です。

これには毛利家から養子に行った「次男、吉川元春」と「三男、小早川隆景」は「長男毛利隆元」を盛り立てて毛利家を繁栄させていけよ、ということが書いてあります。

よく考えれば養子に行かされた挙句、三子教訓状に書かれていたのは「毛利家を大事にしろ」というもの、次男と三男からすれば「知らんがな」という気もするのですが・・・。

といいつつも次男と三男は親父の言いつけをきちんと(一応)守りました。しかし。

その子供の世代。毛利輝元が西軍の大将となった天下分け目関ヶ原の合戦。とんでもない裏切り者が戦をひっくり返しました。いわゆる「小早川秀秋の寝返り」です。

小早川秀秋というのは、豊臣秀吉の正室高台院の兄の息子、つまり秀吉の甥になります。それが秀吉の親戚筋として重用されたのに、秀吉の息子秀頼が生まれると流れが変わり小早川隆景の希望で養子縁組し小早川姓になった男です。

結局小早川家というのは毛利家を支えるどころか毛利家率いる西軍に弓を引いちゃったというやつです。

あかんがな、小早川。なにしてんねん小早川。でもこの小早川秀秋という人も可哀想な人なのです。

俗にいう秀吉の奥さん「ねねさん」の兄の息子という絶好のポジションで登場しておきながら、秀吉に愛息秀頼が生まれたばっかりに遠ざけられてしまったという。でもこのことで小早川家は秀吉を支える五大老として君臨できたんだから小早川家とすれば拾ってラッキーというべきか。

「同情するなら金をくれ」ならぬ「同情するなら地位をくれ」と言ったとか言わなかったとか(いや絶対言ってない)

この小早川家、徳川政権ですぐにお家断絶

ところがこの小早川家。小早川秀秋という人がアル中であっけなく関ヶ原の合戦の2年後に死んでしまうと徳川政権で初のお家断絶という目にあいます。残された家臣も「関ヶ原で裏切った小早川家の家臣ということは裏切りかねないぞ」ということで仕官先も苦労したのだとか。

やっぱり義理とか人情っていうのは大事ですよねぇ(誰に向かって言ってる)

※当初この記事は別記事の中の余談ということで書かれたものですが、諸事情につきこの部分だけで記事にすることにしました。