袖振り合うも多生の縁は仏教思想が大きく関わっていた
子供の頃は「袖がぶつかってしまうことも多少の縁なのだ」という意味だと思ってました。まぁ近くを歩いたらそんな縁もあるのかなと。でもホントは全然違いますよね。違う上に奥が深いことわざです。
このことわざ、正しくは
「袖振り合うも多生の縁」です。
袖振り合う、は言葉のまま、歩いてて相手とすれ違うときサラッと袖が触れ合うような些細な事。今で言うなら「満員電車で肩が触れた」とか「反対側のホームの女性と目が合った」くらい些細なことです。
このことわざの理解が難しいところは「多生の縁」。 この言葉、実は言葉の語源は仏教の思想から来ています。それを解説してみることにしましょう。
多生とは仏教の六道からきた言葉
多生というのは仏教の六道という考え方から来ています。
人間というのは何度も生まれ変わりながら6つの苦しみや迷いの世界をさまよっていると言われていて、その6つ(天道、人道、修羅、餓鬼、地獄、畜生)をまとめて六道といいます。
この6つの中で繰り返し生まれ変わることが多生の意味。六道というのは大きく二つに分けられます。三善道(三善趣)と三悪道(三悪趣)です。
まず、三善道。
三善道(三善趣)とは
- 天道 苦が少なくて楽が多い、喜びを感じる世界
- 人道 人の生きる世界、ただ人間特有の迷いや苦しみは存在する
- 修羅 苦しみから戦いが生まれてしまい永遠に繰り返される世界
そして三悪道。
三悪道(三悪趣)とは
- 畜生 動物のように欲望の通り生きること、家畜のように仏の道では救うことができない世界。
- 餓鬼 目の前の欲望をひたすら飲み込もうとする。欲望は飲み込む時に火と変わり永遠に喉の渇きとしてその世界の者を責め続ける
- 地獄 苦しみばかりの世界。焦熱地獄や極寒地獄、賽の河原や阿鼻地獄、叫喚地獄などがあるという。
この中を生まれ変わりながら、たまたま人道で生まれたのが現代人なのですね。そしてこの生まれ変わりの時に「どうやって生まれてきたか」が4つあるのですが(四生・ししょう)、六道+四生のことを「輪廻転生」というのです。
四生とは
- 胎生 母親の胎内から生まれる
- 卵生 卵が孵化することで生まれる
- 湿生 虫などは湿気から生まれるとされていました
- 化生 胎生や卵生ではなく、突如生まれること
こういう様々な世界、様々な生まれ方の中で今こうして自分が生きているということを考えると、ちょっとした縁で関わるということは現世でたまたま袖が触れ合うような些細なことであっても、その繰り返す輪廻転生の中できっと深い縁があったということ。だからどんな些細な縁でも大事にしましょう、ということなんですね。